『即興詩人/森鷗外』 [(そして本も)]
先日の朝日の読書欄に、安野光雅さんの文章が載っていました。
「文語を口語にするのは難しい」という題でした。
題材は『即興詩人/森鷗外』。
「モリオウ貝という貝はどんな貝なの」ときく女子高生がいるというエピソードもはさんでいましたが、本当にそんな質問する人はいるのでしょうか。
その鷗外の『即興詩人』は、文語訳なので、今は読まれることが少ないということでした。
言文一致の時代にあえて擬古文として訳したことで、多くの読者を得たとのことですが、今となっては、擬古文だからこそ、読まれぬ憂き目にあっているのでしょう。
それで、この安野さんが、口語訳を進めておられるとのことですが、それがそんなにたやすいことではないのだそうです。
〝文語で理解できるのだから口語訳もできよう、と思ったのはわたしの早計だった。
そこには舞台と現実の違いがあり、舞台をそのまま撮影しても映画にはならないようなものある。〟
とありました。
あと、興味深かったのは、鷗外の訳には「~的」というのがないということでした。
話し言葉では、とても安易に「~的」と使ってしまいがちですが、
安野さんのご指摘通り、この「~的」という言い回しは、〝的(まと)がぼんやりする。〟と言えますね。
とにかく、この文章を読んで、一度『即興詩人』を読んでみようと思いました。
意味深い内容ですね。
言文一致といっても実際は完全には一致させられないものであり、口語はあくまでも口語であって決して話し言葉と同義ではなく、そういう点を踏まえて訳す(読み手に伝える文章にする)ことの難しさや矛盾を指摘しているのだろうと思います。
鷗外の訳には「~的」というのがないという指摘は面白い。
日本人は「ぼやかしてはっきり言い切らない表現」が得意なので、言葉への注意を払わないと「~的」の濫用をしてしまうでしょう。
最近では「擬音+感」の多用が嫌なのですが、これはまた違ったことなのかな?
この本を読んでわたし的には超面白そうで、わくわく感がある的なやばい内容かもって感じかな・・・わざと変な文章を書くのも別の意味で難しいな、普段まともに書くと「内容が無いよう」という駄文になるというのに(^^;
ちょっと鷗外のことで思い出したことがあるので、そのうち記事にしようかな。
by 珍言亭ムジクス (2010-09-28 22:07)
>口語はあくまでも口語であって決して話し言葉と同義ではなく、
おっしゃるとおりですね。
今の世の中の話し言葉は、あまりにもうつりかわりが早く、後世に残ることもないものも多そうで、そういう意味で、ちゃんとした口語というのを意識することも必要だと思います。
珍言亭ムジクスさんの鷗外論、楽しみにしております。
by のすけの母 (2010-09-29 08:22)
こんにちは
早速、青空文庫で探してみました。
すぐに見つかりました、便利な時代ですね〜
(でも本が売れなくなる、、、)
ところがやっぱり横書きは読みにくい!
試しに縦書きに直してみましたが、実に面倒くさい。
やっぱりワイド版にはかないません。
by e-g-g (2010-10-04 12:50)
今、青空文庫を見てきました。
旧仮名遣いなのに横書き……残念ですが、旧仮名遣いのままというのは良心的?
私は、ワイド版を買いました。
by のすけの母 (2010-10-04 21:33)